マルファン ネットワーク ジャパン
第8回救急症例検証会 講演内容


今日は、私どもMNJに、お話をする機会を与えて下さりお礼を申し上げます。また、救急隊のかたがたにはいつも心身ともに大変な、そして大切な仕事に従事され感謝申し上げます。
今日、私は千葉県の柏から参りましたが、私の父は岐阜県の出身で、父の仕事で私は高校まで三重の津で過ごしました。愛知、岐阜、三重という東海地方は身近に感じています。

まず、私とマルファンのかかわりからお話ししたいと思います。今話しをしながら心臓がどきどきしているのですが、わたしの血液の流れる大動脈のお腹の部分から下は去年の12月に手術を受け、テフロン製の人工血管です。
私には姉が二人いますが私と上の姉は父からの遺伝でマルファンです。
上の姉が就職試験の健康診断で名古屋大学の医学部の教授から、長い指を眺められながらあなたはマルファンですよ、マルファンってご存知ですか?といわれ初めてその言葉を聴きました。
姉は体格が似ているから、父も私もそうだと言いました。しかし、それが何を意味するか深く考えたことはなく、ひょろひょろとした体型の問題だけだと思っていました。実際、姉もそのとき、それ以上の検査を進められた覚えはないというのです。
父は60歳のときに、急性腹部大動脈瘤解離で三重大学医学部の心臓外科の先生から大手術を受けました。そのときは何とか助かりましたが、その6年後に今度は胸部大動脈の急性解離のため救急車で大学病院に搬送される途中に亡くなりました。もう30年も前のことです。ずっと後になって、父の死亡診断書にマルファン症候群とあるのを見つけました。

私はずっと普通に生活をしておりましたが、10年前、自分もやはりマルファンだということを思い知らされることになりました。長年一緒に暮らしていた母が肺がんでその前年に亡くなり、子供たちも受験や進学で一番私が忙しくしていたころでしたが、3月のある晩お風呂に入ろうとして、着替えのために手を上げたとたん首の付け根に違和感を覚えました。筋を違えたのかと思いましたが、温めたら直るだろうとそのままお風呂に入りました。ところがその違和感は痛みに変わり、加速度的に痛みが増してくるのです。いつもと違う、何か普通でないものを感じて、大急ぎで着替えて、布団にもぐりこみました。気の持ちよう、お願いだから、痛みが治まりますようにとじっとしていましたが、背中と胸が痛く、呼吸も苦しくもう我慢の限界でした。経験のない痛みに恐怖を覚えました。夫が救急車を呼びました。車が来るまでとても長く感じられましたが、実際は10分かかっていなかったようです。救急隊の方はてきぱきと私をストレッチャーで車内に運び、無線で連絡をとって搬送先の病院を探してくれました。「思い当たることはありますか?」と聞かれ、最近息子が自然気胸を起こしたのを思い出して、そのことと、関係がわからないまま父がマルファン症候群だったと伝えました。搬送先の市立病院の当直医がちょうど循環器の先生ですぐに対応していただきました。翌日、少し容態が落ち着いたところで、経食道エコーという、喉から食道にカメラを入れる実に苦しい検査を受け、肩の辺から、大動脈が終わって、二股に分かれるところまでずっと解離しているのが見つかりました。行きは車椅子で運ばれたのが帰りはストレッチャーに乗せられて、重病人扱いで、三ヶ月絶対安静を命じられました。そのときは、手術はリスクが高すぎるから、内科的治療をとるということで手術は見送られました。担当医からはマルファン症候群だと診断を受けました。
三ヵ月後、退院したときはすっかり季節が移ってもう初夏になっていました。無理は絶対いけません、でもお雛様のように飾っておくわけにもいきませんからねと、先生も困っていらしたのを覚えています。それからは、定期的に、造影剤を入れてCTをとるという検査を受けることになりましたが、自分がどのくらい、動いてよいのか、まったくわかりませんでしたし、今度、破れたら、父のときのように自分も死ぬのだろうと思っていました。私は自分と父以外マルファンの患者を知りませんでした。先生にも、「正直、心臓の手術より血管の手術のほうが厄介なのです」といわれていました。
その頃、インターネットはまだ、あまり普及していませんでしたが、夫が調べてくれた限り、日本語では、マルファンの情報は出てきません。それが、英語では当たり前のようにたくさんのサイトが出てくるのです。イギリスにはトールクラブという会もありました。つまり日本人にはマルファン症候群の人がいないということなのかとも思って、ネットで検索をすることをやめていました。けれど、その頃、マルファンネットワークジャパンの発起人の古藤雅代さんは、自分の経験を書いたホームページを作り情報を発信していたのです。上の姉は自分と同じ体型の息子が気胸やロート胸の手術をしてそのことで悩んでいましたが、私のことも心配していました。そして、日本にマルファンの患者会があるみたいよと教えてくれたのが2002年の春でした。「横浜で会があるから参加してみない」と誘ってくれました。それがMNJとの出会い、そして古藤さんとの出会いでした。
古藤雅代さんは、情報のない中、手術をしてくれる先生と病院にたどり着くまでの自分の苦い経験から、正しい情報を発信することが多くの人の命を救うことにつながるとの強い思いで会を立ち上げたのです。彼女の実行力に敬服します。私はそれから、MNJに載っている情報をむさぼるように読みました。大動脈のもろさが致命的なこと、背が高いこと、ロート胸、偏平足、肩にある成長線、息子の自然気胸、今までばらばらだったことが、マルファン症候群と言うキーワードですべて、説明がつくのです。そうだったのかと、納得の行く思いでした。そして、そのような自分を受け入れてこれからは生きて行きたいという思いを持ちました。
横浜で、初めて、若く、聡明な美しさを持った古藤さんに会って、この細い体のどこにあのエネルギーが秘められているのかと思いました。私はこのとき、初めて自分の家族以外のマルファンの人に会いました。受付でペンを持っている人の指を見て、私と同じだと思いました。初めて会ったのに、昔から知っているような親近感を覚えました。そして、話し合いの中で、手術の経験者がたくさんいることに驚きました。
複数回の手術を経験している方も、また人工血管の全置換をしている方にも二人会いました。解離の経験をしている人はもちろんもっとたくさんでした。私は今度手術を勧められたらそれで終わりだと思っていましたので、出席者の話しにどんなに勇気付けられたかわかりません。そのときに予定手術の話しも出ました。緊急で運ばれて手術を受けて助かることは大変だが、時期が来たら、良い状態のときに手術を受けるとよりよい結果が得られるというものです。初めて出席して、多くの仲間に会ったこの横浜の会のことは今でも鮮明に覚えています。去年、医師から腹部の拡張を指摘され、手術を勧められたときに、前向きに受け入れることができたのも、MNJで得た会員の経験談や情報のおかげです。




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