マルファン ネットワーク ジャパン
国際Marfanシンポジウム参加報告 1

はじめに
 ベルギーのゲントで開かれた国際マルファンリサーチシンポジウムから帰りました。19カ国から200名が集うという大きな会でした。研究者や医者対象なので、患者会関係者は20数名と言うところでしょうか。医者だけが出席している国も少なくありませんでした。4日間、医療シンポジウムが朝から、夕方まであり、最終日の夜にIFMSO(国際マルファン組織連盟)と言う患者会の集まりがありました。今回、シンポジウムの会場でポスター発表というかたちでMNJの助成金事業とその成果物つまり、ガイドブックとマービンの絵本を紹介すると言うこと、そして最終日の国際会議に出席すると言うのが私たちの出席の主な目的でした。多くの方にお会いし、日本の患者会MNJを他の国に紹介し、情報交換することができたと思います。他の国の様子を知るためにアンケートも用意しました。日本からはMNJアドバイザーの御茶ノ水女子大学遺伝カウンセラーの田村智英子先生と私たち夫婦の3名が参加しました。ポスターは田村先生が精魂込めて作ってくださり、また、アンケートの仕上げも見ていただきました。MNJのために本当にいろいろしていただき感謝の気持ちでいっぱいです。

その一ゲントの風景(クリックすると大きく表示されます)
 ゲントは、ベルギーのフランダース地方の中心地、中世の面影の残る、小さな町です。人口は23万人、町には古い城跡や大聖堂があり、古風な趣き。運河の両脇には海運交通が盛んだった往時を偲ばせるギルトハウスが立ち並び、美しい景観を作っています。IFMSOの2002年ボルチモア大会(米)では、会場も宿舎も同じホテルで、エレベーターを降りるだけで、移動がほとんどありませんでした。今回の会場は日本で言えば市民ホールのようなところで、大きなショッピングセンターが隣接していました。小さな町ですが、ホテルがたくさんあり、参加者は毎朝、それぞれの宿舎からトラム(路面電車)にのって、ほんの10分足らず、駅の階段を上り下りすることもなく近くの停留所でポンと降りてすぐ、会場に着きます。抄録や資料の入ったバッグだけ抱えて、通勤者に混じって1ユーロを払って、電車に乗り降りしていると、その気になりやすい私などは3日目くらいには自分がゲントの住人になったような錯覚さえしてきます。

 初日は、夕方6時の開会でしたが、その前にポスターを各自展示するようにと言われていましたので、ホテルで、台紙に貼るなど最後の仕上げをして、早めに会場に入りました。今回のシンポジウムのポスター発表というのは、応募と審査で決まりました。マルファン症候群に関する研究発表の場がホームページで募集され、抄録を送り、審査に通ったものが発表できるのですが、口頭発表とポスター発表の二種類があります。田村先生が応募したのは口頭のほうでしたが、ポスターの方で審査に通りました。ポスターというと、何だか「火の用心」とか「水を大事に」の標語と絵の組み合わせなんていうのが頭をよぎりますが、IT技術の進んだ今日、写真でもグラフでもとにかく何でもデジタルで作った資料を取り込んで作りあげた作品を大きな特別な一枚のフィルム紙に印刷して、展示します。今回先生もその予定だったのですが、印刷が間に合わなくなり、結局A3の紙10枚に印刷し、きれいな台紙(銀座の伊東屋特製の赤)の上に貼りました。けれど、これが手作りの風合いを出していて、成功だったと思います。田村先生は紙だけでも大荷物だったと思います。待ち合わせのゲントの駅でお会いしたとき、大きなスーツケースのほかに背中にリュック、前にもリュックを抱いていて、びっくりしました。

 さて、受付で登録を済ませ、名札や資料、参加者名簿、それを入れるビニールのバッグ、など一式を受け取り、ベルギーにようこそといって、チョコレートの入った小さな箱もいただき、感激でした。ポスター会場になる地下に下りると、まだポスターを貼っているグループはなくて、34番のパネルに案内されました。ピンや糊はなくて、先生が日本から用意してきた両面テープを使い、バランスよく、貼りました。きれいに折ってもらった鶴も配置して、紐を通したガイドブックと絵本もぶら下げました。椅子の上には、古藤さんの写真の載った基金の絵葉書と、色刷りの抄録もきれいに並べて準備完了。きれい、きれいと3人で自画自賛しておりました。その頃になるとボツボツ人がやってきて、3年前にあった懐かしい顔にも会い、挨拶しました。シンポジウムの構成は、これらのポスター35と13の口頭発表そして、メインが専門医や研究者による招待講演となっています。これらを4日間でこなすのですから、朝から夕方まで長い一日です。次はオープニングから。

その二
 初日は夕方6時からスタート
 総責任者Anne De Paepe先生(ゲント大学)の開会スピーチに続いてマルファン症候群の今日おかれている状況に関して三つのスピーチがなされました。ガイドブックにも載っているゲントの診断基準が実際の診断としてどのように役立っているか、遺伝子の研究が進むにつれて、遺伝子診断と臨床診断の間の開きが問題になってきているということでした。また、MNJではあまり話題に上りませんが、マルファン症候群に似た別の疾患もあります。確実にマルファン症候群という診断は専門医でも慎重なのです。

 ジョンズ・ホプキンス大学病院の小児の心臓専門医のディーツ先生の話に続き、患者会としてアメリカの患者会、NATIONAL MARFAN FOUNDATIONから、会長のジョーが話をしました。「NMFは患者会として、研究費を医療専門家に出して、医者の側は患者に治療法を還元する、という関係にある。私たちが欲しいのは今患者の役に立つ実際的な、現実的な治療法なり、術法だ(つまり、遺伝子レベルの研究というより)。」とはっきり言ったのが印象的でした。
 ジョーはショービジネスの弁護士が仕事で、後日、ガイドブックの翻訳の件で田村先生と激しいやり取りをすることになりました。遺伝子の検査をする場合もそれがその患者さんに役立つものでなければ、やらない、遺伝子の配列を調べてその人に何のメリットがあるのかと疑問を呈するアメリカの臨床医もいるとのことでした。長い目で見て、将来の診断に役立つためならと、依頼されればどちらかといえば協力すべきだと考える私たちとは少し違うのかなと思いました。

 今回の主催は上記のゲント大学アン先生とその研究室、副がディーツ先生(ジョンズホプキンス大学病院)です。ベルギーの患者会も会長のイボンヌを中心に準備と運営に協力しています。参加費はありますが、これだけのイベントを賄うには当然スポンサーがありNMFは金銭的にも人手も多大の協力をしたとのことです。また、March of Dimes(芸能人が良く参加するので知られる有名なボランティア活動)の名前もあり、他に医療機器メーカーも宣伝のブースを出し、医療者向けにパンフを配っていました。

 会長のイボンヌは最後に挨拶しましたが、「手術、治療法のおかげでこの30年間マルファン症候群患者を取り巻く環境が劇的に変化し、寿命が延び、QOLの向上が見られる、これは感謝です。まだまだ、これから研究を続けていただきたい。わたしたち患者会は医療分野でないところで、大いに協力して、力を出して、マルファン症候群を社会に知らしめ、早期に診断を受けることで、より良い人生が歩めるよう、教育と言う面でも働きたい」と話しました。けれども、そう話したイボンヌ自身はマルファン症候群ではなく、16年前にマルファンのご主人を亡くし、去年、23歳の息子のパトリックを突然の解離で亡くしたばかりなのです。パトリックは、三年前ボルチモアでは人なつこい性格で皆をもてなし、笑わせていたのを覚えています。長い金髪を一つに後ろで結わえ、ジーンズで快活に動き回っていました。上のようなスピーチをイボンヌがするのは本当につらいことだろうと胸が痛みました。

 後日、晩餐会で話しをした時に、いつも感情を出さない彼女が「パトリックは私のすべてだった。いつも私を助けてくれた。何が壊れても彼が道具を持ってきてあっという間に直してくれた。ユーモアがあって皆に愛されていた、グライダーが好きだった」と堰を切ったように話してくれました。「小さなときから、良いといわれたことは何でもした、一番良いと言われる医者にもずっと見てもらってきた、それでも駄目だったから、仕方がないのね」と結んだ彼女に私は何と言葉を返してよいかわかりませんでした。
 今回のシンポジウムで重責を担うことが彼女を支えていたのかもしれないとも思いました。NMFの創始者で、現IFMSOの会長のプリシラさんもやはり、ご主人と息子さんを亡くしています。プリシラさんは今回80歳の誕生日を迎えたのです。

 初日はそのあと、ホールで簡単なレセプションがあり、無事終わりました。レセプションでは軽い食事とワインなどの飲み物が出され、立ったまま、あちこち旧交を温めたり、初対面の挨拶をしたりする姿が見られました。私たちも疲れたのでさあ、帰ろうとすると、誰かに会ったり、上手に英語でおいとまができなかったりで、結局10時くらいになりました。帰りはトラムがなかなか来なくて、線路の上を歩きましたが、たいした距離ではなく、初日の興奮冷めやらぬ私にはちょうど良い散歩でした。

その三ポスター展示の様子(クリックすると大きく表示されます)
 2日目からいよいよ本格的なプログラムが始まりました。講演は招待講演と、応募して採用された口頭発表の両方がありますが、初日は診断に関して、臨床診断と遺伝子診断について、また、ゲントの診断基準でマルファン症候群と診断された人の遺伝子診断などの報告でした。シンポジウムの正確な中身は田村先生の報告を待ちたいと思います。パワーポイントを使っての発表の後、必ず質疑応答の時間もあります。地元の大学の研究生も大勢来ていました。お昼になると、ポスター発表の会場でもあるホールに下りて、サンドイッチを食べ、お茶を飲みます。ポスター発表は、日本の学会の場合、決められた時間に同時に皆がその周りに集まり、発表者がポスターを見ながら口頭で説明し、皆が耳を傾け、次に移るというのが一般的だそうですが、(実際、博多の心臓血管外科学会の時もそうでした)外国では、ポスターを見る時間というのが定められていて、思い思いにあちこちのポスターを見て、傍らの責任者に質問したり、説明を受けたり、自由に歩き回ることが多いと田村先生にお聞きしました。今回、お昼休みは一時間設けられていて、毎日その間がポスターを見る時間になっていました。で、早めにお昼を済ませ、ポスターの横で待機していました。
 実にいろいろな人が立ち寄ってくれました。今回のシンポジウムの参加者はほとんどが研究者か医者、といった専門家です。最初は全体像がつかめず、この人もマルファンなのかしらと思いながら、話をしていて、ほとんどが専門家だということが段々わかってきました。ポスターは遺伝子の研究や、大動脈の手術に関する症例の報告など医学的なものが多かったので、日本のポスターは異色で、興味を示してくれた人が多かったようです。田村先生は、MNJの出版事業が、「患者会の活動のひとつの形」として注目に値する、として今回応募してくださったのです。会場で、最初に声をかけてくれたのは、ベルギーのお隣のオランダの患者会から来たアンドリューと息子さんのルーベンでした。オランダからは大学の遺伝学者のグループなど、専門家はたくさん来ていましたが、患者会からはこの二人でした。オランダの患者会は登録会員がやはり300名前後との事で、国内にマルファンを専門に診てくれるチームのある病院が五つあるそうです。ガイドブックに非常に興味を示してくれて、項目を説明すると総合的な内容になっていることに感心していました。マービンの絵は原作よりずっとかわいいね(内緒)とほめてくれました。日本の子ども向けに、ベッドではなく、お布団に寝ているマービンをタクヤさんに描いてもらったのですが、これがとても評判で、この絵のおかげで、日本のことについて話が弾むこともありました。隣のポスターのオランダの大学の遺伝学者も、「残念ながら、中身が日本語でわからないけれど」と前置きして、ガイドブックを作ったことを評価してくれました。また、遺伝子診断を希望でしたら、この金額で(いくらか忘れてしまいましたが高額でした)うちの研究室でできますよと名刺もくれました。見に来てくれた人には、MNJの基本理念、発起人の古藤さんのこと、会の規模やアドバイザーのこと、活動の様子をポスターを見ながら説明するようにしました。そして、基金のことも紹介して、古藤さんの写真の載ったはがきを渡しました。マルファンクリニックのあるジョンズ・ホプキンス大学病院の関係者もたくさん来ていて遺伝科の研究室の人が患者会の活動に興味を示して、患者会の規模や、活動の様子、本の配布先、感想などいろいろ質問してくれました。各国の患者会の代表には田村先生と相談して作ったアンケート用紙を配り、協力してもらうよう、お願いしました。イタリアからは医者の卵のきれいな女子学生を二人連れた遺伝専門医が、この方も女性でしたが、精力的に会場を回っていて、ポスターを見るようにと、彼らを案内して連れてきてくれました。イタリアに限らず、「遺伝専門医になります」という女性にたくさん会いました。患者会主導でこういう本をまとめるとは、活発な活動をしているのですねとたくさんの方から言われました。イギリスの患者会の会長のラスト夫妻にお会いするのは初めてでした。イギリスの患者会は春に21周年記念の大会があったばかりで、MNJの藤井代表の関係者が出席して、マービンの本を手紙と一緒に渡して下さり、そのお返事もいただいてあったので「ああ、あなたが日本から・・・」という風で、双方初対面という気がしませんでした。「確かに本をいただきましたよ、素敵な本で子供たち向けですね」「日本人の患者さんがイギリスにもいると思うのですが、MNJのことを是非教えてあげたい」と言われました。

 シンポジウム終わり近くのある晩ウォーキング・ディナーがありました。ウォーキング・ディナーの意味は未だによくわかりません。所々に椅子もあったけれど、大体、立ったままでいろいろな人と話せるようにあちこち歩き回るからかなと勝手に解釈しています。運河を見下ろす、すばらしく格調高い会場で、最初にショーを楽しみ、後は食事をしました。主催国ベルギーの患者会のイボンヌは,ちゃんと食べてる?この方はご存知?と紹介してくれたり、皆に細かく気を使っていました。名物のムール貝のワイン蒸しもこのとき彼女の勧めで初めて食べました。NMFの会長ジョーは、前回のボルチモアのとき、オープニングの挨拶のスピーチがわかりやすくて、すばらしかったので、お礼を言ったらあとで原稿をコピーしてくれたのですが、そんなことで覚えてくれていたのでしょう、デザートの、柔らかい本物のチョコレートをスプーンですくうように食べていた彼にちょうど会い、私は田村先生をMNJのアドバイザーとして、彼に紹介しました。田村先生はこの機会に、とガイドブックの翻訳記事の話しを始めました。「よその国であっても同じマルファンの患者会なのに、NMFの記事を翻訳して使うのになぜ大変な思いをしなくてはいけないのか説明してほしい」とずばりと聞かれました。ガイドブック作成の折り、NMFが作った妊娠、出産にあたってのリーフレットを翻訳して載せるということが決まったのですが、思っていたようにスムースには行かなくてNMFの著作権担当の弁護士まで出てきて、NMFの指定する翻訳家が日本語に訳し、MNJがその代金を払って掲載の許可を得るという経緯がありました。私たちは、当初、まず翻訳チームが訳して、それをアドバイザーの先生にチェックしていただくことでOKが出ると思ったのですが、その許可が下りなかったのです。最終チェックを申し出てくださった田村先生がその対応が患者会としておかしいとずっと思っていらして、ちょうど、会長のジョーにあったのでそのことを確認したいと口火を切られた訳です。話し合いは結局物別れに終わったのですが、ジョーは一貫して守りの姿勢で、NMFの作った資料が、もし誤って訳され、それを信じた患者が不利益をこうむったり、死に至った場合、訴えられたら、誰が責任をとるのか、という主張でした。NMFには一切の責任を負わせませんと但し書きをしてもだめだと言うのです。NMFの指定の翻訳会社は保険にも入っていて、訴えられたら、きちんと対応できる仕組みになっている、善意で行っても、裁判になることがある、現にNMFは裁判を経験しているというのです。マルファンの疑いのある人が,病院にもかかっていなくて自宅で急死した場合、本人の部屋にNMFのパンフの資料があったら、それだけで、何か間違った情報を与えていたのではないかと調べられることだってあるというのです。ジョーはショービジネスの関係の弁護士を仕事にしていると書きましたが、「日本人とも仕事をするが、彼らは打ち合わせのときにほとんど書類を用意していないで、せいぜい紙切れ一枚で、あとは口頭の合意で契約が成立するという感覚を持っている気がする」とも言われました。徹底した契約社会というのでしょうか。
 私は双方の言い分を聞きながら、一言も口を挟めず、対等に渡り合う田村先生をただすごいなと思っていました。この夜のことをジョーは、プリシラに話したのでしょう。最後の日、シンポジウムの終わったあと、プリシラに呼び止められて、「今回の翻訳のこと、私も残念に思ってる。私個人としては、持っている情報は自由に共有して欲しいし、そうするべきだと思っているけれど、NMFはもう社会的にも責任のある大きな組織になっているの。そしてボード(役員会)で決めたことは、私も尊重しなくては。洋子、今回のことは、知らないままに使っていたら かえって問題がなかったのかもしれないとさえ思ってしまうわ」と同情してくれました。

 最後の日、患者の立場から、ということで、プリシラが話しをしました。自分が始めた小さな一歩がいろいろな歩みの中でこんなに育って、今大きな影響力を持っている。患者が医師を育てることもできるのだという挨拶をされました。そして、「今日が初めてでドキドキよ」と言いながら、パワーポイントを使ったのです。ちょうど、プリシラは80歳を迎えそのお祝いに、出席者がそれぞれ一言ずつお祝いとお礼を書いて、サインブックを作りプレゼントしましたが、彼女の感じ方や態度は、その年齢を感じさせない若さにあふれたもので、また、ユーモアやゆとりがあり本当に教えられることが多いと思いました。彼女の前では、自分が青二才という気がします。


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