古藤雅代
(この古藤さんの発表は、総会では進行上の都合により自己紹介の中の一部として発表され ましたが、この報告では、より位置づけがはっきりわかるよう、この部分だけを別項目として抜き出します)
きょうはマルファンネットワークの基本的な考え方について話をすることになっていますが、まずは、わたしが最初のマルファンネットワークを立ち上げた経緯をお話することが、当初のマルファンネットの考え方を理解していただくのに都合が良いとおもいますので、長い自己紹介のような形ですが、説明したいと思います。
お配りしたコピーは、私が96年10月に、最初に立ち上げたホームページの表紙と病歴のコピー、それから今年6月までのマルファンネットワークジャパンに掲載されていた、「このホームページについて」です。
96年10月当時のホームページより
*マルファンネットワークができるまで
99年5月当時のホームページより
* このホームページについて
わたしは26歳まで、自分がマルファン症候群であるとは全く知らずに生活してきました。
96年5月に26歳で、何度目かの自然気胸をおこし入院しました。そのときに下行大動脈瘤が見つかったのですが、最初にかかった病院ではマルファンだということは説明してもらえず、ただ「この病気の手術は世界中どこの病院に行っても無理。破裂した時点で緊急手術をするしかない。」と言われました。また両親には医師から「30歳まで生きることはないだろう」と説明されました。
その後、自ら希望して近隣の大学病院でも診察を受けましたが、結果は「3人に一人は下半身不随になるし5人に一人は死亡する手術である。」と言うものでした。
わたしがMarfanという言葉を最初に知ったのは、ひとつ目の病院に入院中にカルテに「大動脈瘤について説明する必要があるが、Marfanという言葉は使わない。」という一文を偶然見てしまったためでした。
その「Marfan」で日本のサーチエンジンで検索してみましたが、該当するページはありませんでした。しかし、アメリカのサーチエンジンで検索すると、National
Marfan Foundation のホームページが見つかり、アメリカでは手術の成功率も高いし、30歳まで生きられないというような恐ろしい病気ではなさそうだ、ということが解りました。
そして「なぜ日本にはマルファンの団体がないのだろう?日本でインターネットができなかったり、英語が読めない人たちは、マルファンの情報を手に入れることができないのではないか。」と考えました。
この時期、医師の誤った説明から、わたしは自分がいつ突然死してもおかしくないと考えていました。わたしには子供もいないし大した仕事もしていない。でも、もしわたしが日本でマルファンの会を立ち上げることが出来たなら、自分の生まれてきた意味、マルファンで生まれてきた意味があると言えるのではないか?と考え、すこしずつNMFの記事の翻訳に取り掛かり始めました。
翻訳作業を進めつつアメリカで手術をすることも検討していましたが、知人の知人である心臓血管外科医から、「大阪の国立循環器病センターであれば、手術できる。」という情報を得、なかばあきらめた気持ちで診察を受けました。
しかし、そこでの診察結果は「手術の成功率は98%であり、既に手術を受ける時期に来ている。」というものでした。
わたしはおどろいて、今までの他の病院での診察結果を話しました。そのセンターの医師は
「それは大昔の話です。ここでは3年前から今の術式で好成績をあげています。」
とおっしゃいました。これが96年9月のことです。手術が決まり気持ちも落ち着いたので、マルファンネットのホームページを96年10月にはじめました。
この経験から、わたしは情報というものは、ひとの命を救うのだと強く感じました。
そして、医師は他の病院で治療の手段があるのなら、それを患者に教えるべきだし、すべての治療成績を知ることが不可能ならば、病院みずからが情報を公開し、患者が治療や病院の選択をできるようにしてほしいと強く感じました。
いまの段階では、病院側からの情報公開はまだ無理かもしれませんが、それならばなおさら、 MNJ のように患者サイドが自分たちの経験や情報を共有し、身を守っていくしかないと考えました。
いままで連絡くださった方々の中にも、自分がマルファンだと知っていても、具体的にマルファン症候群が何か?ということ、検診を受けなくてはならない、ということを知らずにいた方が多かったし、知らないがために無駄に命をおとす人もいるということを考えると、インターネット内外問わずマルファン症候群についての情報を広く知らせていくことが、わたしたちの使命ではないかと思います。